物語の主人公は、都内の古びたアパートで暮らす三十五歳のフリーライター・兼田好司(かねだ・よしじ)。
名前からして明らかに兼好法師のもじりである。好司は、かつては意識高い系の評論記事で人気を得ていたものの、今では仕事も減り、動画配信サイトで「人生について語る雑談ライブ」を細々と続ける日々を送っている。
彼の唯一の趣味は、「つれづれなるままに」思いついたことをスマホのメモアプリへ書き込むことだった。
電車で見かけた奇妙な人々、ネット炎上、マッチングアプリの空虚な会話、サブスク疲れ、無意味なオンライン会議――そうした現代社会への違和感を、好司は淡々と記録していく。
映画はオムニバス形式で進行する。たとえば「第52段・既読スルーのこと」では、返信タイミングを巡って恋人同士が哲学論争に発展し、最終的にAIチャットボットを交えて大混乱になる。
また、「第109段・映える寺院」では、京都旅行に来たインフルエンサー集団が“映え”目的で寺を巡る一方、実際には誰も歴史に興味を持っていない様子が描かれる。
特に印象的なのは、「無常観」を現代的に描いた中盤のエピソードだ。
好司の友人である元人気ユーチューバーが、アルゴリズム変更によって一夜で再生数を失う。
昨日までチヤホヤされていた人物が、翌日には誰からも忘れられる。
その姿を見ながら好司は、「バズもまた、盛者必衰」と呟く。この場面は笑えるのに妙に切なく、映画全体のテーマを象徴している。
終盤では、好司が偶然バズ動画で人気者になる。
しかし、彼自身は次第に「人に見られるための言葉」しか発信できなくなり、空虚さを感じ始める。
そんな中、停電でネットが完全に遮断された夜、彼は久しぶりに紙のノートへ文章を書く。ラストシーンでは、「退屈を埋めるための情報は増えたが、人は昔より孤独かもしれない」というモノローグと共に、静かな朝焼けが映し出される。
この映画の魅力は、古典文学を単なるパロディで終わらせず、現代社会への鋭い風刺へ昇華している点にある。
SNS依存や承認欲求をテーマにした作品は多いが、『令和版 徒然草』は説教臭くならず、“どうでもいいことで悩み続ける人間のおかしさ”を笑いとして描いている。その笑いはどこか知的で、観客に「自分も同じだ」と思わせる力がある。
また、会話のテンポが非常に良い。
古文調のセリフを突然使ったかと思えば、次の瞬間にはネットスラングが飛び交う。たとえば、「あやしうこそものぐるほしけれ」を「マジで情緒バグる」と字幕翻訳する場面など、古典と現代語のギャップを利用した笑いが随所に散りばめられている。
映像面でも工夫が多い。
主人公が思索にふける場面では、SNS通知が雨のように空から降ってくる演出が使われる。
逆に静寂を描く場面では、環境音だけを強調し、現代人が“通知のない時間”に耐えられなくなっていることを示唆している。
この対比が実に巧妙だった。
一方で、欠点もある。エピソード数が多いため、人によっては散漫に感じるかもしれない。
また、ネット文化への風刺が中心なので、SNSに馴染みのない世代にはネタが伝わりにくい部分もある。しかし、それを差し引いても、本作には「古典は今でも人間を描ける」という面白さがあった。
徒然草 を現代に置き換えたらどうなるのか――そんな大胆な発想から生まれた架空のコメディ映画『令和版 徒然草』は、古典文学の世界観をSNS社会へと移植した異色作である。タイトルだけを見ると堅苦しい文芸映画のように思えるが、実際にはテンポの良い会話劇と、現代人の“あるある”を皮肉った笑いに満ちたブラックコメディとなっている。
結局、『令和版 徒然草』が描いているのは、時代が変わっても人間は相変わらず悩み、見栄を張り、孤独に怯えているという事実である。
スマホを持とうがAIを使おうが、人間の本質は兼好法師の時代から大きく変わっていない。
その滑稽さと哀しさを、笑いながら見つめ直させてくれる秀逸なコメディ映画だった。






