上京して早2年が経過致しましたが、いまだに東京のコンクリートジャングルには慣れません。
2年も住んでいると、望郷の意がふと芽生えます。
田舎の閉塞感があれだけ嫌だったはずなのに、そこにあった自然や動物、情景を思えば恋しくなるのは不思議ですね。
美しかった記憶の中の自然に想いを馳せながら、一本の映画を紹介したいと思います。
今回ご紹介いたしますのは「ザリガニの鳴くところ」という映画です。
ご存知かと思いますが、ザリガニは鳴きません。
Google先生に聞いてみたところ、「生き物が自然のままの姿で生きている場所」だそうです。
主人公の母の台詞にこの文言があるのですが、物語の展開に関係していたり、考察の余地もありますのでここでは触れ無いことにしておきます。
1960年代のノースカロライナ。ある湿地帯で街の人気者が死体となって発見されました。人々が疑いの目を向けたのは「湿地の娘」(カイア)。
家族に捨てられ、孤児として1人で湿地で暮らしてきた彼女は街の人々から侮蔑され忌避されています。
彼女は殺人事件の容疑者として身柄を勾留され裁判にかけられることになってしまいました。
「親に捨てられ湿地帯で生き抜き、そこで出会った男性と恋をする過去の話」と、「刑務所、裁判所で行われる裁判課程の現在の話」の二つで構成され、ミステリーと恋愛物語の二つの大きな要素にこの物語は牽引されます。
1960年という時代背景と相まって、彼女を殺人犯だと断定する証拠も薄く、「街の人々から嫌われている」というその一点を理由に殺人犯として祭り上げられた側面が強いです。陪審員もそんな町民の一部の為、弁護側が不利な状態で現在の裁判パートは進みます。
過去パートは独房にいるカイアからの告白を弁護士が聞くという形で彼女の半生を描きます。
その中で、恋に落ちた2人の男性のうちの1人が、冒頭で殺害された「街の人気者」というわけです。
無機質で冷たい裁判所と湿地の美しい自然描写の対比構造はこの映画の見どころであると共に、自然の中で生き抜いてきたカイアの生き様には相反する同情と憧憬の念を抱かずにはいられません。
幼い頃に両親に捨てられ、湿地でたった1人で生き抜いてきた「湿地の娘」。
その人生は壮絶、悲惨そのものだと言わざるを得ず、「可哀想」だなんて表現は生ぬるく感じます。
街の嫌われ者を体良く始末できる口実としての裁判は、視聴者の我々からしてみれば冷徹極まりなく、根拠希薄甚だしいことに怒りさえ覚えます。
1人孤独に湿地で生きてきた彼女への検察の求刑、その結末が死刑だなんてあってたまるか、と思わずにはいられませんでした。
「湿地」と聞くとじめじめしていて薄気味悪い印象を抱きますが、この映画の自然描写はどれも美しいものとなっています。
繁茂する草木、野鳥の鳴き声、小波立つ湖畔、熾烈な生存競争の場でもありますが、ここで生きてきたカイアにとっては湿地こそ心安らぐ場所でした。
湿地への偏見は町民にも我々同様に存在しており、彼女が忌み嫌われる要因の一つにもなっています。
しかし正直なところ、利便に慣れ、環境に胡座をかいて生きるよりも、自然と共存していく彼女の生き様と、それにより培われた彼女の強かさが個人的には好きです。
ただ、脚本と演出の都合上しょうがないのですが、カイアの身なり等々を見ていると、サバイバル達者な娘にはどうしても見えず、リアリティに欠けているのはこの映画の唯一の欠点かもしれませんね。
かといって女版ターザンみたいなのが現れても華がない気もしますが、、、
ここは難しいところですね、目を瞑りましょう。
予告やPVは一切閲覧せずに観た方がいいかもです。それでは。
P.S.