「石焼ビビンバがあるのに、普通のビビンバを頼む理由があるか?」
この問いを人生のすべてとする男、田中誠司(42歳)。彼は都内の中堅商社に勤める、ごく平凡なサラリーマンである。しかし、彼にはひとつだけ、誰にも譲れない信念があった。それは、石焼ビビンバを提供している焼き肉屋で、あえて普通のビビンバを注文する人間は愚かである、というものだった。
石焼ビビンバの最大の魅力は、熱々の石鍋によって生まれるおこげにある。ジュウジュウという音、立ち上る湯気、器の底にこびりついた香ばしい米粒。それらを味わわずしてビビンバを食べたと言えるのか。誠司にとって、普通のビビンバを注文する行為は、映画館でわざわざ字幕のない外国映画を選び、内容が分からないと文句を言うことと同じくらい理解しがたいものだった。
ある金曜日の夜、誠司は会社の同僚たちと焼き肉チェーン店「焼肉大将軍」を訪れる。注文の時間、後輩の佐藤がメニューを眺めながら「普通のビビンバひとつ」と口にした瞬間、誠司の箸が止まる。
「……お前、石焼は?」
何気ない質問だった。しかし、佐藤が「いや、猫舌なんで」と笑って答えたことで、誠司の中に眠っていた何かが目を覚ます。
「猫舌? だから普通のビビンバ?」
誠司は語り始める。石焼ビビンバの合理性、温度変化による食感の多様性、最後まで熱を保つという機能美。そして、たった百円から二百円程度の差額で得られる幸福を自ら放棄することの愚かさ。話は次第に熱を帯び、やがて焼き肉の注文もそっちのけで、店内の客全員を巻き込んだビビンバ論争へと発展していく。
しかし、佐藤は静かに言い返す。
「先輩、食べ物くらい好きに食べたらいいじゃないですか」
その一言が、誠司の心に深い傷を残す。
実は誠司には、過去に忘れられない出来事があった。幼い頃、家族で訪れた焼き肉屋で、父親が普通のビビンバを注文したのだ。誠司は父を軽蔑した。せっかくの外食なのに、なぜ最高の選択をしないのか。なぜ自分から可能性を狭めるのか。
その夜、父は帰り道に交通事故に遭い、帰らぬ人となった。父が最後に食べた普通のビビンバ。その記憶は誠司の中で、いつしか「間違った選択をしてはいけない」という強迫観念へと変わっていたのである。
物語の後半、誠司は仕事でも大きな失敗を犯す。部下の提案を「最善ではない」という理由で却下し続けた結果、重要なプロジェクトが頓挫。上司から「お前は正解を選ぶことに必死で、相手が何を求めているのかを見ていない」と告げられる。
失意の中、誠司は久しぶりに実家を訪れる。そこで母親から、父が普通のビビンバを好んでいた本当の理由を聞かされる。
父は猫舌だった。そして、熱いものを無理して食べるよりも、家族とゆっくり会話をしながら食べる時間を大切にしていたのだ。
「お父さんね、あんたが石焼ビビンバをおいしそうに食べるのを見るのが好きだったのよ」
その言葉に、誠司は初めて気づく。父は間違った選択をしていたのではない。ただ、自分とは違う幸せを選んでいただけだったのだ。
ラストシーン。誠司は再び「焼肉大将軍」の暖簾をくぐる。隣には、かつて激しく言い争った佐藤がいる。
注文を聞かれた誠司は、メニューを見つめた後、ゆっくりと口を開く。
「普通のビビンバ、ひとつ」
驚く佐藤。誠司は照れくさそうに笑う。
「今日は、お前が食ってるやつを食べてみたくなった」
運ばれてきたビビンバをひと口食べる誠司。石鍋のような音はない。劇的なおこげもない。しかし、彼は静かにうなずく。
「……これも、悪くないな」
画面が暗転し、エンドロールが流れる。
最後に映し出される文字は、こうだ。
「正しさは、いつも熱々である必要はない。」
感想
本作は、一見すると焼き肉屋のメニュー選びという、あまりにもくだらない題材を扱ったコメディ映画である。しかし、その実態は「自分の正しさを他人に押しつける人間」の滑稽さと悲しさを描いた、意外なほど真面目な人間ドラマだ。
まず、タイトルの破壊力がすさまじい。『石焼ビビンバのある焼き肉屋で普通のビビンバ注文するやつはバカ』。このタイトルだけで、主人公がどれほど面倒くさい人間なのかが伝わってくる。しかも、映画が始まってしばらくは、誠司の主張にも一理あるように思えてしまうのが面白い。石焼ビビンバには、おこげという明確な魅力がある。わざわざ同じ店で普通のビビンバを頼むのは、確かに不思議に見えるかもしれない。
だが、本作の巧みなところは、観客に一度だけ誠司の側へ立たせてから、その足元をゆっくりと崩していく構成にある。誠司の理屈は、料理の話としては成立している。しかし、人間関係に持ち込んだ瞬間、それは他人の事情を無視した独善へと変化する。猫舌の人間に熱々の石鍋を勧めても、本人にとっては苦痛でしかない。価格や機能だけでは測れない価値が、食事には存在するのだ。
父親のエピソードは、やや melodramatic(メロドラマ的)にも感じられる。普通のビビンバという小さな記憶に、父の死と主人公の人生観を結びつける展開は、少々大げさだ。しかし、だからこそ本作は単なるネットミーム的なコメディで終わらない。人は時に、過去の出来事に自分なりの意味を与え、それを絶対的なルールにしてしまう。誠司にとって「石焼ビビンバこそ正解」という信念は、単なる食の好みではなく、失った父親との記憶を整理するための、不器用な防衛手段だったのだ。
また、職場のエピソードも印象的である。最善を求めること自体は悪くない。しかし、最善の定義を自分ひとりで決めてしまえば、それは組織を停滞させる。誠司が焼き肉屋で振りかざした理屈は、実は会社でも家庭でも同じように繰り返されていた。ビビンバという小さな題材が、完璧主義や価値観の押しつけという普遍的な問題へつながっていく点は見事だ。
そして、ラストの「普通のビビンバ、ひとつ」という台詞がいい。誠司は石焼ビビンバを嫌いになったわけではない。自分の好みを捨てたわけでもない。ただ、普通のビビンバを選ぶ人間にも、それぞれの事情や楽しみ方があると理解したのだ。成長とは、これまで信じていたものをすべて否定することではなく、自分の正解が世界の唯一の正解ではないと知ることなのだろう。
個人的に、本作で最も優れているのは、最後まで「石焼ビビンバと普通のビビンバのどちらがおいしいか」という結論を出さない点だ。もし最後に普通のビビンバの素晴らしさを延々と語り始めたら、誠司は別の価値観を押しつける人間になってしまう。彼は単に、他人の選択を尊重できるようになった。それだけで十分なのだ。
もっとも、上映後に焼き肉屋へ行った観客が、メニューの前で数分間悩み始める可能性は高い。石焼を選ぶたびに「自分は本当に石焼が食べたいのか、それとも誠司に影響されているだけなのか」と考え、普通のビビンバを選べば選んだで「これは映画に感化された選択ではないか」と疑い始める。そう考えると、本作は観客の日常にまで余計な影響を与える、かなり厄介な映画である。
総じて、『石焼ビビンバのある焼き肉屋で普通のビビンバ注文するやつはバカ』は、ふざけたタイトルに反して、他人を理解することの難しさを丁寧に描いた作品だ。笑いながら観ていたはずなのに、気づけば自分自身の「当たり前」を問い直している。
映画を観終えたあと、私はこう思った。
石焼ビビンバを注文する人間も、普通のビビンバを注文する人間も、どちらも別にバカではない。ただし、他人が普通のビビンバを注文しただけで説教を始める人間は、少しだけ面倒くさい。
そして、そんな自分の面倒くささに気づけた人間は、きっと昨日より少しだけマシな人間なのだろう。